マタイ26章1~13節

                 愛の香り(2024年9月8日)

いよいよ十字架へ

1節は「イエスはこれらのことばをすべて語り終えると」と始まります。これまでもマタイの福音書は、イエス様によるまとまった長さのお言葉が終わると、その都度「イエスはこれらのことばを語り終えると」という言葉を挟んでいました。でも、今回は、これらのことばを「すべて」語り終えると、すべてという言葉が加わります。この福音書では、まとまったイエス様のお言葉はもうありません。残り3章、一気に私達は十字架と復活の物語へと入っていきます。イエス様も宣言します。2節「あなたがたも知っているとおり、2日たつと過ぎ越しの祭りになります。そして、人の子は、十字架につけられるために引き渡されます。」初めて、十字架は、あと2日後に迫った過ぎ越しの祭りの金曜日に起こると予告された。

これからご一緒に読み進めていくと、今年のアドベントの直前で終わる予定です。私自身、受難物語を、毎週順番に語るのはもちろん初めてです。ワクワクしています、受難物語は、4つの福音書ができるずっと前から、真っ先に1つにまとめられ、教会で語られ続けてきたと言われます。それだけ、キリスト教信仰の中心だったんです。

無駄遣いと疑われた人

 そんな受難物語、実は、4つの福音書のうち、3つが、今日の、ある家で1人の女性がイエス様にした出来事から書き始めているんですね。13節でイエス様がその女性に対し「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます」と言われたまさにその通りに、人々は、十字架の話が語られる時、いつも、この女性の存在を思い出すことになった。

しかし彼女は、居合わせた弟子達からは、あなたがしたことは無駄遣いではないかと最初非難されていたのです。6節「さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやってきた。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。」

べタニアは、イエス様が、エルサレムに滞在した1週間、宿泊された近くの村でした。この日、1人の人の家で客になっていたイエス様に、他の福音書では、マルタとラザロの姉妹であるマリアが、非常に高価な香油の壺をもってきてイエス様に注いだ。これも他の福音書によると、インドのナルドというヒマラヤ地方特産の香油で、300デナリ、数百万円する品物だったのです。

貧しい人に施せばいいのではないか

8節“弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。この香油なら高く売れて、貧しい人達の施しができたのに。」無駄という言葉は、破滅的とも訳される強い言葉です。あなたがイエス様の弟子なら絶対やるべきではなかったと怒ったのです。

ヨハネの福音書だと、それを言ったのは、イエス様を裏切るユダだとされます。しかも、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で金入れを預かりながらそこに入っているものを盗んでいたから」だとある。でも、実際は、他の弟子達も怒ったのだとマタイは言うです。

イエス様の愛の教え

なぜここまで強い反応を彼らはしたのか。ヒントがあります。思い返せば、今日の箇所の直前、25章の終わりは、どんなイエス様の言葉があったか。それは、小さな愛のわざに生きる大切さでありました。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの1人にしたことはわたしにしたのです」。空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませてあげるそのわざが、最後の審判の日にあなたがクリスチャンである事を示すほどに価値がある。教えが、弟子達の胸に深く刻まれた。主はそんなご自分への捧げものを望んでいないはずだ。あなたはイエス様の気持ちが分かっていない。

私が神学校に行く前に参加していたホームレス伝道の働きは、色んな教会から自発的に奉仕者が集まって続けられていました。金曜日遅くまで仕事をした人達が、毎週土曜日朝7時に雨の日も雪の日も集まる、生活物資も自分で献品してゆかれました。時々、奉仕者達から教会への問題意識が語られる事があったのです。教会は、あまりに自分達のためにお金を使い過ぎている。そのお金があるなら、貧しい人への施しに使えたじゃないか。お金だけじゃなく、思いをもっと外に向けてほしい。礼拝堂に閉じこもっていないで。自分が牧師になって改めて、考えさせられる問いだと思います。

私に良いことをしてくれた

しかし、弟子達の思いに反して、10節“イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。”主イエスは、この女性の無駄遣いを喜ばれ、褒められたのです。なぜなら、「この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。」

実際彼女が、どこまで分かってやったのかは分からない。でも彼女マリヤはいつも主の足元に座って主のことばを聞くの愛する人でしたから、十字架を前にしたイエス様とのふれあいで何かを感じたのでしょう。その時胸がいっぱいになり、イエス様への自分を愛を表したくなった。この香油は、女性の嫁入りの際に実家から贈られたものだったとも言われます。一世一代の品なのです。それを全部、主に注ぎだしてしまったのです。

主を愛することは無駄遣いではない

イエス様はそんな損得抜きの彼女のあふれ出た愛を、受け取ってくれました。現実的にその香油を売って、多くの人に施しができたとしても、イエス様への愛につぎ込んだ彼女を良い事をしたと言ってくれた。

もちろん、弟子達の、誰かへのあわれみの思いも主は喜んでくださいますよ。お前たち良く私の言葉を覚えてくれていたねって。でも弟子たちの過ちは、この女性のイエス様への愛を無駄遣いだと思ってしまったことです。確かに、それでは、誰かの必要を満たすことにはつながらない。でも、誰かのために何かをするだけじゃなく、手を留めて、ただ主の前に自分の魂を置くこの時間、そこにかける思いも時間も捧げものも決して無駄遣いではないんです。

愛を出し惜しみしない

礼拝こそ、神様以外の誰のためにもならない、そういう意味では究極の無駄遣いです。休日のこの午前中使えば、色んな事が人のためにできますよ。でも、イエス様は11節「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」これから先も、貧しい人はいくらでもいる。人に手を差し伸べる機会は山のようにある。でも、主に全力で愛を捧げる機会は、今しかないから。一週間のうちで、たった1時間ちょと、それを損得勘定で、出し惜しみしたりしてはいけないんです。中途半端な礼拝しちゃいけないんですよ。

 でも弟子たちは、イエス様にそう言われてもなお思ったかもしれない。香油をイエス様に注ぐにしても、そこまで全部注ぎ切らなくても良かったんじゃないかと。7節でイエス様の頭に注がれた油は、12節で「わたしのからだに」注がれたとある。イエス様の全身に滴り落ちてきた。けど、この種の香油は、常識的に全部注ぎだすようなものではないんだそうです。少しずつ使うもの。女性の皆さんも経験があるかもしれない。うっかり香水の瓶から必要以上の香水があふれ出たときに、とてもキツイ匂いがする。部屋中、むっとする異様な匂いがただよったのかもしれない。

イエス様への愛は、私の愛の香油の全部までは注がなくてもいいんじゃないか。今日今、礼拝で出し惜しみをする。だって、自分の愛も集中力も限りがあるから。人によっては朝の奉仕、午後の奉仕がある。家に帰った後の事がある、午後の予定がある、明日からの仕事がある。その中で調整して、今神に捧げる情熱に自分で歯止めをかける。これからほかで必要な分の香油は残しておこうとする。

しかも、自分の心を全部注ぎ出すなんて、異様な匂いを周りにただよわせるのではないか。お行儀よく、礼拝をしている周りの中で、自分ひとり気持ちが高ぶっているのは、変に見えるのではないか。初めて教会に来た人が、涙ぐんで礼拝している姿は、美しいなあと思って皆受け入れるだろうけど、自分が普段と違ったら、隣の家族は、どうした、お腹でも痛いのかと思うかもしれない。お行儀よく、ちょっと冷めてた方が余裕があるように見える。

でも、主を愛することを、私達は出し惜しみしてはいけない。なりふり構っていてはいけないのです。いや、いられないはずなのです。

最も無駄遣いした人

なぜなら、イエス様こそが私達に出し惜しみしなかったからです。なりふり構わなかったからです。

今日の箇所、最も無駄遣いとも言えることをしようとした人はこの女性ではありません。イエス様ですよ。だって神の子が、わたしたち1人1人のために、これからいのちを捨てるっていうんですから。これ以上の無駄遣いはないでしょう。

でも、イエス様は、自分の意志で十字架へと進んでいくのです。今日の2節でイエス様は、十字架は、過ぎ越しの祭りの時に、起こると明言されました。しかし、マタイによれば、当時の宗教指導者たちの思惑は違ったんだそうです。3節「そのころ、祭司長達や民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。彼らは「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。過ぎ越しの祭りというのは、イスラエル人の三大巡礼祭、世界中のユダヤ人がやってきて、人口は数十倍に膨れ上がりました。この間は、ローマ帝国の支配に対する民族運動、メシア待望が盛んになる危険な時でした。だから祭りの間はやめておこうと指導者は思った。イエス様を捕らえて、民衆が反発し、なにかあったら、自分が責任を負わされる。

主がもたらそうとしていた

しかし、主はこの日だと決めていたんです。なぜなら、この日が最も自分の十字架の意味を表せる日だからと。過ぎ越しの祭り、それはかつてエジプトで奴隷状態だった民が、モーセに引き連れられ脱出する、その際、神は、エジプト中の家の最初の子どもを殺す災いを送ります。しかしイスラエル人だけは、羊の血を家の門柱につけ、それを目印にそのわざわいが過ぎこされた。

滅びの死の力が、あなたを過ぎ越していくために私は死ぬ。十字架につけられた私は、皆から笑われ、恥も外見もない。でも、なりふり構っていられないのは、私はそれが無駄遣いだと思わないからだ。あなたを滅びが過ぎこすために、私は自分の愛を全部これから注ぎだそう。そのむきだしの愛にこの女性の魂が触れて、彼女はとっさの行動に出たのです。その愛に答えるには、これをもってしてもむしろ足りなかった。

誰が無駄遣いとも言える愛で

確かにこの女性の浪費は計算が成り立たない、勘定ずくでない愛です。しかし、むせかえるような、この異常な愛の香油の香りが部屋に満ち溢れた時、その香りがさし示していたのは、しかし、いったい、誰の愛なのか。ここに愛がある、この部屋に愛の香りがする。勘定のなりたたない愛をもって、まず誰が誰を愛したのか。イエス様の愛だったのです。

私は、マタイ福音書を礼拝で語り続けてきて本当に良かったと思う。私達イエス様についての話を聞くとき、私達は、それをひややかな心で聞けることはできないはずなんです。その瞬間、神に自分の心をすべて捧げざるを得ないはずなんです。他の人への愛を、心に残しながら、この後の予定のために余力を残しながら、本当は聞けないはずなんです。なりふり構わないむきだしの愛が差し出されているのだから、私達もここで一度全部捧げる。

なりふり構わず生きるために

 その時、私達の愛は溢れるばかりのものになる。私は信じる、ここでなりふりかまわずに、愛を神に注ぎだせる人だけが、人に対しても、愛を注ぎさせる。余力を残して神を愛する人は、人に対しても余力を残した愛し方しかできない。しかし、神を愛するものだけが神のように愛することができる。なりふりかまわない愛で生きられる。人に愚かと言われようが、人にどう思われようあ、自分自身で馬鹿な事だと思うようなことがあったとしても、その思いに打ち勝って、人のために生きることができるように、初めて私達はできるのです。教会が内向きにただ礼拝しているこの瞬間こそ、私達を通して愛が世界に開かれていくきっかけが毎週生まれている。

走り出した夜

ある日、母教会で私が夕拝に出席しようと教会に着くと、携帯にメールがきました。ホームレス伝道のリーダーの1人から、あるホームレスの人の行方が分からなくなったから、これから隅田川のあたりを探しに行ってくるという連絡でした。これは、暗に、幹君も来たまえという事かなと察したのですが、夕拝が終わったらもう遅いし、次の日の仕事もあるし、「お祈りしています」と返したのです。

礼拝では、ヨハネの福音書がずっと語られていました。どの箇所だったかは覚えてはいないのですが、出会う1人1人に本気で語りかけるイエス様の姿が、語られました。そして、その日も、その神の愛が、あなたにも注がれているんだと語られ、私は夢中で礼拝を捧げました。イエス様と出会って感謝でいっぱいになり、心からの祈りを捧げたんです。

すると、礼拝の後の、その他の報告の時間、私の心がドキドキし続けている事に気づいたのです。すぐに、ホームレスのリーダーに電話し、今から行きますと言いました。そして中央線の電車に乗り込んだ自分は、これから何時まで外で探すことになるかなんて、そんな小さなことはどうでも良かったんです。

余力を残して礼拝をしていたら、絶対に味わうことができない。今、主を愛しましょう。今心から捧げましょう。礼拝ってそういうものです。あなたにすべてを捧げた神様に。自分の全部を注ぎだしましょう。(終わり)