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ガラテヤ4章1~11節

奴隷ではなく、子(2025年3月9日)

色々な年、月を守る

ガラテヤ教会はパウロから10節で「あなたがたは、いろいろな日、月、季節、年を守っています」と言われています。これは彼らがユダヤ教的なカレンダーを守っていたんだろうと思われます。旧約聖書には、土曜日の安息日のほか、毎月の新月の祭り、3大巡礼祭と呼ばれる祭り、大贖罪日、さらに、7年ごとに来る安息年など様々な祝祭日が決められていました。

パウロは、他の手紙では、それは来るべきものの影であって、キリストが来た以上守る必要はない、ただ、ユダヤ人クリスチャンが引き続きそれらを大切にする事を別に否定まではしない。どちらでも良いことだからと言っていました。ですが、ガラテヤの異邦人達が、ユダヤ教の暦を守ることについては、11節「私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。」パウロ牧師にとても心配されてしまうんです。あなたの救いのために自分が労した事が無駄になってしまったのかと。それは彼らが守る動機にありました。

諸々の霊の奴隷

それは9節によれば「どうして弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願うのですか。」ちょっと難しい話をします。実は、ガラテヤ地方の人々というのはみんな、この世界には、色々な霊力が働いていると信じていたんです。そして、この地方のユダヤ教も、この考えが混ざり込んでいて、様々な旧約のカレンダーを守ることで、そのような悪い力が自分に及ぶことを防げると考えていたらしいのです。

ガラテヤ地方がある小アジアとは、西のギリシャと東のオリエントの交差点で、様々な宗教が入ってくる場所でした。彼らは、この世界というのは、地、火、水、風という要素によって支配されている、あるいは天体の動きによって支配されていると信じていました。そのような霊力の存在の他に、色々な神話の神々がいて、同じように、人間の生活に干渉をしていると人は信じていたのです。その得体の知れない力に怯えながら、人々は暮らしていました。何か悪いことがあると、自分がその霊の機嫌をそこなってしまったのではないかと、振り回されていたのです。

日本的な価値観

日本人も、色んな見えない力を信じていると思います。結婚式場には、仏滅割引という言葉があるんだそうです。お祝い事は避けた方がいいとされる日だから、予約が埋まりにくい。今年男性と女性それぞれに厄年というものがあって、特に男性の42歳と33歳は大厄と言われ最も良くないことが起きる。実際に、うちの父親は転んであばら骨を折ったりして、やっぱり厄年だと家族で言っていました。テレビのニュースとか週刊誌の後ろにある、今週のあなたの星座の運勢。自分の子どもの名前を考える時の姓名診断。ちゃんとそういう情報を得て、必要な対策をすれば、見えない力は、あなたに悪いことは起こさない。ひかり幼稚舎に子どもを送りに行く際に通る蕨神社にも、朝出勤前に手を合わせる若いサラリーマンの姿がある。

神の子どもなのだから

しかし、私達は、この世界には唯一まことの神がいるという事を今、知っています。だから、他のどんな、目に見えない力が私を脅かすこともない。奴隷のように恐れをもって生きる必要はない。神に私達は守られ、神に人生を導いてもらっている。7節で「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。」神の子どもなんだと先週に引き続きパウロは言うのであります。

神に信頼し切れていない

しかし、その神の子どもであるガラテヤ人が、旧約聖書の定めた日を熱心に守っていたのは、神を愛するためよりも、それを自分が行うことで、悪い力が自分に害をおよぼさないと思っていたからだとしたら?案外、キリスト教も、ご利益宗教と変わらなくなってしまう。

あの仕事がうまく行くだろうか。あの人と結婚できるだろうか。家族が健康で円満に過ごせるだろうか。あの人間関係が解決するだろうか。そういう時日本人は、神社に行き、お賽銭を願いの強さに応じて金額を変えて投げ入れ、願掛けの絵馬やお守りを買うという行いをする。初詣という日を守る。同じようにクリスチャンも、あの心配事があるから、その期間は祈祷会に忠実に守ろう。毎朝7時に必ず聖書を読んでお祈りしよう。献金を多めに捧げよう。それでも、悪い事が起きたら、ああ、私があれをしなかったからだ、今週教会に行かなかったからだと、思い悩む。

その時、私達は知らないうちに「弱くて貧弱な、もろもろの霊に逆戻りして、もう一度改めて奴隷になりたいと願っている。」あなたは、神に信頼し切れていないのです。神の守りよりも、心は、引き続き、心配事の奴隷になっている。

パウロは言うんです。「私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。」「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。」私があなたのために努力した事、救いとはあなたは神の子なんだと気づくことですよ。天地万物を収める唯一の方があなたの天の父なんです。神に対しても、あなたは奴隷じゃない。

すでに知られている

 もちろん、祈祷会もデボーションも大切です。祈りで願いを熱心に口にすることも大事です。でも、いうなれば奴隷根性の祈りというものがある。神の愛を疑いながら、何とか自分がしつこく泣きつく事でようやく聞いてもらえる。神社の神には、例えば日本人は、この神が自分を特別に愛してくれているなんて考えもしません。だから、神社でお賽銭入れた時に、じゃらじゃらと賽銭箱の上にある鈴のひもを鳴らして、今から願う祈りをちゃんと聞いてくださいねとするんです。でも、父は違います。9節「しかし、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに。」あなたの事は全部神にすでに知られているんです。あなたが祈らなくてもです。そして、あなたは、神の子どもとして天の父に今知られているから、神様のあなたへのまなざしはあなたの行いで変わらないのです。

ただ、神は、愛する子に祈ってほしいんです。自分の口で、思いを分かち合ってほしい。

恐れにとらわれていた旧約時代

そんな、神との親子関係にただ安心すること、それがイエス・キリストが私達のためにしてくださった救いだったはずです。

イエス・キリストが来られるまでは、これほどの神との関係を人が持てるとは、誰にも分かりませんでした。パウロは言います。3節で「同じように私達も、子どもであったときには、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていました。」ここでパウロが言う私達とは、このあと4節で律法の話が出てくるので、ユダヤ人が含まれます。ユダヤ人も旧約時代は、この世のもろもろの霊の下に奴隷となっていた。これは、異邦人が色んな見えない力に怯えていたのと、神様を知っていても結局変わらなかった。何よりも神とはユダヤ人にとってただ一緒にいて安心できるような方ではなかった。罪があったから。神そのものが、恐ろしく見える時があった。罪という力の奴隷でありました。

もちろん、最近話しましたが、旧約にも、神の憐れみや恵みが書いてありました。ユダヤ人は神を父と呼ぶことさえできました。でも、やはりキリストが来るまでは、本当に神の子どもであるという事が何かは分からなかった。

時満ちて

この事を、パウロは当時の法律で説明します。1節「つまり、こういうことです。相続人は、全財産の持ち主なのに、子どもであるうちは奴隷と何も変わらず、2父が定めた日までは、後見人や管理人の下にあります。」旧約時代もユダヤ人は神の子どもだったのです。当時、父親が子どもに財産を相続した歳、父が彼が何歳になったらと決めた日までは、子どもは自由に息子として与えられたものを使うことはできなかったのです。その財産に関する権利においては、その家にいる奴隷と変わらなかったんです。

でも、4節「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私達が子としての身分を受けるためでした。」イエス様によって、ユダヤ人も、そして異邦人も、神の子としての身分を受け取りました。それは旧約の頃ユダヤ人が知っていた神との関係とは全く違う世界です。もはや、自分の罪ゆえに、神に対し怯える必要がなくなった。キリストが、人間として生まれ、罪の奴隷となっていた人間を贖い出す、代金を払ってくれて自由にしてくれた。いのちの代金、身代わりに十字架で死んでくれたことで、私達は神を自分の罪ゆえに怖がらずにすむのです。

霊的な成熟とは子どもになること

3節では、キリストと出会う前の私達は、こども、未熟という意味でこどもだったとあります。そして、ここには、大人になって信じた私のように、神社に初詣行って、学生時代は占いにハマってという方もいるでしょうし、子どものころから教会に来ていたという方もいるでしょうね。子どもの頃から教会にいた人にとっては、今の、旧約時代のユダヤ人の気持ちが理解できるのかもなと思ったのです。神様はいるって当たり前のように信じているけれど、神様は同時に自分の罪に怒っている怖い方、でも、時が満ちて、自分の心にもイエス様が遣わされて、私のために十字架にかかったんだと知った時、神様との関係って変わったんですね。

どちらの歩みだったにせよ、イエス様と出会う前の私達は未熟という意味でこども。ということは、イエス様を信じた私達は、成人、大人となったわけですね。そして神のこどもとして成長していくとは、大人になっていくことです。私達はクリスチャンとして成長しなければいけません。

そこについて、パウロは、興味深い事を言うんです。6節「そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私達の心に遣わされました。」

アバ、父よ

アバという呼び名は、パパという意味です。パパもそうですが、生まれて何ヵ月かたった子供が、言葉にならない言葉で父母を呼ぶ。最初に覚えることばの1つです。それがアバ。ユダヤ教は神にはさすがに恐れ多いと、アバは使わなかったんです。

そして、パウロは神の子どもは、アバ、父よと、叫ぶんだと言うのです。

私達夫婦が、朝早く下に起きていると、突然上から、パパ、ママという声が聞こえます。寝室に来てほしいのです。嫌なことがあるとパパとやってきます。公園でブランコを見てほしい時もパパと言います。

私自身、大人になって、そんな風に、父さん父さんと呼びかけることもなくなりました。

大人になるということは、父親から自立することだったからです。

でも、神の子どもが大人になることは、むしろ逆でますます、父よ父よと、幼子のように神へのよびかけを口にすることだ。そうパウロは言うのです。

恐れを締め出す愛の関係性

そして、パウロは、私達がアバ、父よと叫ぶことができるのは、御子の御霊が私達の心に遣わされているからだと言うのです。

イエス様こそが、神をアバと呼んで祈った最初の方です。父よ、父よと幼子のように口にするお方が、しかし、誰よりも恐れから自由だったのです。自分の働きはうまくいくだろうか、日ごとの食事は手に入るだろうか、健康でいられるだろうか、いや、そもそも自分の祈りを神が聞いてくれるのだろうかという恐れはイエス様にはなくて、信頼をもって天にますます父よと主は祈りながら歩まれた。

1つだけ、主が、恐れにとらわれそうになった時がありました。ゲツセマネの園です。自分の身にふりかかろうとしているあまりの苦しみを前に、これが御心だと確信が揺らいだ。でも、その時も、父よという祈りがイエス様を前に進ませていったのです。

祈りを生み出す御霊

キリスト教は、ご利益宗教ではありません。祈ったら、あなたの恐れていることが起こらないとは限りません。祈祷会に忠実に出ようとも、毎日デボーションしていても、どうしてこんな事がというものが自分の身に起こるのです。あなたの祈りが足りなかったからとか、行いが間違っていたから願いが聞かれなかったという事でもない。そういうことは起こるんです。

でも、私達には、父よと祈る祈りがなお残されているんです。

どうやって祈ったらいいか分からない。祈る言葉も湧いてこない。でも、私達の口から、父よという言葉が紡ぎ出される。その一言が、恐れを私達から追い出して、立ち直り、御心としてその事を受け止める一歩をふみださせる。それは、御子の御霊が私達のうちに遣わされているから。もはや、わたしが生きているのではない、キリストがわたしのうちに生きているとパウロは2章で言いましたね。キリストが、父よと私ともに、わたしのうちで叫んでくれるんだというのです。

父よと、ただひとことでいい。その祈りが、あなたを支えていく。なおもあなたは神の子であるという事実があなたの心に刻まれるんです。その時、あなたは知る、自分の恐れていたことがこの身に起きてもなお、父の私への愛も守りも揺るがないんだということを。

あなたは神の子

7節「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」パウロは他の手紙で、聖霊は、私達が天国を受け継ぐことの保証だと言っています。

天国で私達に待っている経験を、聖霊は、前取りして味わわせて今くれている。

パウロは言います。あなたは、もはや奴隷ではなく子です。あなたがたではない、あなたは。パウロは、手紙を読 むひとりひとりのガラテヤの教会の人の姿を思い浮かべたにちがいない。そして、あなたも、あなたも、あなたも、とひとりひとりに呼びかけたくなったのでしょう。他の人 ではありません、あなたですよと、パウロは言いたかったに違いないと思うのです。私どもひとりひ とりが言えるのです。「この私が神の子だ」と。聖書の言葉を私どもすべての者がそのように受け止 めて、神の子の自由に生きたいと願います。 お祈りをいたします。(終わり)