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マタイ26章47~57節

イエスの捕縛(2024年10月13日)

イエス、逮捕される

47節「イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、12人の1人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。」イエス様が先ほどまで祈っていたゲツセマネの園の静けさは、突如引き裂かれました。

そこには、ユダを先頭に、大勢の武器を持った群衆。イエス様が少しでも抵抗しようものなら、血を流すのも辞さない人々がいました。50節後半「そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。」ついに、イエス様は捕らえられてしまった。

恐れからくる衝動

敵意に取り囲まれる。私は中学生の時に、野球部の先輩に目をつけられた事があります。イエス様と違って、私にも非があったと思うんです。生意気だった。ある日の下校時間、私が学校から出るところを、10人くらいの先輩が待ち伏せしてたって事があったんです。で、私は、自分から叫びながら先輩たちに飛びかかっていったんですね。

勇気じゃなかったと思うんです。先輩たちに、この後一体何をされるんだろう。成り行きを待っているのが、滅茶苦茶怖くて、じゃあ自分からと衝動的に仕掛けていった。だから状況なんて見えていませんでした。実際のところ、先輩たちも、ちょっとビビらせようくらいだったんです。大事にするつもりもなかった。恐れに負けた、恥ずかしい記憶です。

ペテロの恐れ

イエス様が捕らえられた時、51節「すると、イエスと一緒にいた者たちの1人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。」この人物は他の福音書だとペテロです。私、ペテロもこれは、勇気じゃなかったと思うんです。この直前彼はイエス様に「私は決してつまずきません、たとえ一緒に死ななければならないとしても」と言った。その彼の信仰の証というよりも、恐れから来る衝動だったのだろうと思うのです。

自分もこの後、捕らえられてしまうんじゃなかろうか。その恐れは確かにあった、だから今日の箇所の終わり56節で「弟子達はみなイエスを見捨てて逃げてしまった。」でも、それは思い込みでした。実際は、群衆はイエス様だけを捕まえるつもりだったんです。人違いで弟子達を捕まえないようにと、事前に48節で裏切者ユダは、“「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」”と打ち合わせていたのです。

現実には起こらない事なのに、恐れがどんどん心の中で広がっていく。だからいっそ、叫びながら相手にきりかかっていく。

剣を取る者は皆剣で滅びる

しかし、イエス様はペテロにそのとき、52節“イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。”そして、他の福音書ではペテロが切り落とした大祭司のしもべの耳を癒すんです。

イエス様は、剣を収める理由を、ペテロ冷静に状況を見ろ、人数差は多勢に無勢だとは仰らなかった。あなたが恐れているような事は起きないから、逮捕されるのは私だけだからとも言わない。剣を取る者はみな剣で滅びる。

イエス様の時代すでにこれは格言だったと言われます。これは有名なみことばです。非暴力による黒人解放運動を指導した、キング牧師が引用した言葉でもあります。自分が暴力を振るったら、いつかかならず自分もまた誰かの暴力で滅びる。ある方が言いました。先生、言葉の剣もそうですよね、自分が嫌な事を言ったら、いつか自分に返ってきますよね。因果応報。そうならないために、自分はその争いの輪から降りる。剣を取る者は皆剣で滅びる。

イエス様が剣を収めた

でも、今回、準備していて気づいたのは、「剣を取らなかった」のはこの場面他でもないイエス様だ、と。52節“そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下においていただくことが、できないと思うのですか。」”今この時も、イエス様はローマ軍団12個分、1軍団6000人でしたから、7万2千人以上のしかも御使いを集めることができたのです。この時大勢の群衆が何人いたかわかりませんが、完全に滅ぼすには十分すぎる剣を取ることはできた。でも、私はその剣を取らないのだから、ペテロあなたも取るな。剣を取るものは皆剣で滅びる、主は、この格言をご自分に対しても、あてはめておられるのです。

あなたの滅びは私の滅び

でもですよ、イエス様が御使いの剣を取ったなら、滅びるのって誰ですか。そこにいる群衆ですよね。剣をとってもイエス様は別に滅びないんですよ。なぜってイエス様の剣だけは正義の裁きですから、私達の暴力のように因果応報の報いがイエス様に返ってくるわけがない。でも、イエス様は、この格言を自分にあてはめる事に違和感を感じていない。剣を今私が取ったら私が滅びると言うんです。そこにある心は、この群衆を今私が滅ぼしたら、それは私自身の滅びに等しい。だから、今、私は剣を取らない。

私達は自分が暴力を振るったら、自分にいつか返ってくるからと思いとどまる。それでは、敵は敵のままです。あくまで自分のために、剣を取らないのです。でも、イエス様はそのさらに先を行っている。イエス様にとって、目の前の自分を捕らえようとする相手とは、どうしても滅びてしまってほしくない相手なんです。そのために、これから自分が十字架にかかると決めた救われてほしい存在なんです。愛を注ぐ相手なんです。単なる敵じゃないんですよ。

自分のために剣を取らないんじゃない。相手のためなんです。あなたの滅びは私の滅びに等しい。私達、目の前の自分に敵意を向ける人がどんな風に見えていますか。

怪獣ではない

中学生の私を取り囲んだ野球部の1人の先輩の家は、私の家の近所で床屋をしていました。その先輩が両親の仕事を時々手伝っているらしいと聞いて、先輩の違う一面を見た気がしました。私の事を先輩と一緒になってからかう同級生の母親から、うちの子と仲良くしてくれてありがとうと言われると、仲良くはしてないんだけどと思いながらも、あいつにも親がいるんだよなと思ったものです。

誰しもに、家族がいる。その人のことを心配し、愛する人がいる。当たり前です、あなたに剣を向ける、その人は、あなたと同じ人なんです。そして、あなたを愛する神様が、あなたと同じように、愛を注ぐ人です。

ペテロ、剣をもとに収めなさい。剣では人は救えないから。私の裁きの剣であっても、救えない。あの人を救うのは、あの人を変え、癒すのは、愛でしか起こりえないんだ。

そして、あなた自身も、あの人達を、私が見るようなまなざしで見てほしい。あなたに剣を向ける人、言葉の剣を向ける人、あなたの存在をうとましいと思っている人、あなたの不幸を喜ぶような人を、なお、あなたには愛してほしい。私がそうしたように。今日、主は私達にそこまでささやくのです。

恐れに打ち勝つ情熱

 しかし、相手は変わらず私に向かって剣を取っているんです。実際以上に相手に恐れを抱いてしまう事もあるけど、事実思い込みではなく、相手に傷つけられる時、なお私達はその人を愛せるだろうか。

イエス様は、強い確信と情熱をもっていました。私は、今この時、12軍団の御使いを集めることができる。54節「しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」旧約聖書には、私が十字架にかからねばならないと書いてある。

イエス様の受難をあらわす言葉で、パッションという言葉があります。これは受難と訳せますし、情熱とも訳せる言葉です。主の受難とは、神が確信と情熱をもって「ねばならない」と突き進んでいかれたものです。

祈りによって乗り越える

私達にも情熱がいるんです。苦しむためには情熱がいります。あなたが人生で色々なものに注ぐ以上の情熱をかける必要があります。逃げたいです。嫌ですよ。自分が愛しやすい人だけを愛していたいです。あの人を自分の言葉でずたずたに切り裂いてやりたいんです。

でも、私達がそもそもイエス様にとって、敵だったじゃないですか。神様に背を向けて歩いてきたじゃないですか。愛しやすい私達だったからイエス様愛してくれたんじゃない。剣で滅ぼされて当然の私達が、救われたんです。十字架で。あなたへのイエス様の情熱がまずあったんですよ。

私達にもこの夜のイエス様のような確信が必要です。私達の愛は、十字架の形を取らねばならない。でもだから、イエス様はこの直前まで、ゲツセマネの園で祈られたのです。「しかし、私むが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください。」あの祈りがあったからこそ、今この時イエス様は「ねばならない」と言えたのです。

だから私達も祈るのです。祈るとき、わたしへの父と子の愛が見えている。父のわたしへの愛の御心が見えてくる、そしてその愛は、神の敵である私に対して十字架の形を取った。まず神の私への情熱が見えてくる。そして、あの人への、私の敵のあの人への父の御心もまた見えてくる。どんなまなざしであの人を父は見ているか。そして、何を私に期待しているか。わが子よ、苦しんでくれないか。イエスのように愛し、イエスのように生き、イエスのように苦しんでくれないか。その時この世界は愛のなんたるかを知るんですよ。

そのためにイエス様はペテロに、私達に先んじて剣を取らないで、捕らえてくださったのです。背中を見せてくれた。ペテロが、私達がその背中の後に続くように。

暴力でない言葉を

十字架を背負う覚悟を決めた人は、言葉が他の人と違ってきます。もちろん、言葉の剣を取らないということは、私達が黙り込むという事でもありません。55節「また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。」なぜ、神殿で教えていたイエス様を捕らえられなかったのか、力強く語っておられたからです。力強く、権威をもって、祭司長達の罪を指摘することばを語っていた。でも、祭司長達にとっては、そんな強い言葉とは、相手を支配するための言葉だった。まさか、そこに自分への愛があるなんて分からない。だから、主を恐れ、大勢の群衆を武器を持たせて送った。でも捕まえにいったら、出迎えたのは、手を広げ、身を任せる主がいたのです。イエス様の言葉がなぜこれほど力強かったのか、単に罪を責めるのではなく、その罪と向き合い、そのために苦しむ事を覚悟した人の言葉だったからです。

親密さの裏側の剣

イエス様のことばの違い。それは、この場面のユダに対しても見てとれます。ユダは49節で“彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。”これは、当時の良くある親密さを示す挨拶です。ユダがこれまでもイエス様にしてきたふるまいで、裏切る。親密な言葉の中に裏切りの剣を潜ませた。

表裏のある言葉、そんな言葉の剣でいかに心が切り裂かれるか、私達は知っています。友達だと思っていた人が、陰で自分の悪口を言っていることを知った。その後、その人と顔を合わした時、平然と優しい言葉をかけられた時、本当につらいですよ。

しかし、そんなユダの言葉さえもイエス様の愛は包み込む。50節“イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。”

友よという真実な呼びかけ

 ユダはこの後、27章で自殺します。その部分は、礼拝では飛ばす予定なのです。この前、最後の晩餐の際、ユダの裏切りを主が予告したところで触れましたから。今回でユダはマタイでは退場します。

イエス様にとってユダってどんな人物だったのか。今日の箇所、ユダを止めるのではなく、しようとしていることをしなさいと背中を押しているのを見ると、まるで、イエス様は、自分の十字架を進めるために、ユダを利用しているように見えてしまう。

でも、イエス様は、50節で、友よとユダを呼んでいるんです。まさに裏切るその時、48節で福音書を書いたマタイは、ユダを「イエスを裏切ろうとしていた者」と呼ぶ。でもイエス様は友よなんです。イエス様がユダを友と親しみをこめて呼んだなら、本当にそこには愛があるんです。イエス様の言葉にはユダのように、親密な振りではない。イエス様の言葉はまっすぐな相手への愛の言葉です。

あなたがしようとしていることをしなさい、ユダをイエス様は友と、愛すべき救われるべき魂と最後の最後まで思っていた。愛だけが敵を友と呼べる。そしてこのイエス様の言葉はユダの裏切りへの許しの言葉です。あなたのその葛藤を、今楽にしてあげる。あなたのしようとしていることをしなさい。でも、絶対にあなたは絶望してはいけない。私がかかる十字架はあなたさえも許すのだから。あなたも滅びてはいけない。あなたの滅びは私の滅に等しい。だから、イエス様は復活した後、地上にユダがいない事に気づいて涙したのではないかと思うのです。ずっと最後まで、イエス様はユダをまっすぐに見ていた。裏切りを受け入れる、そして、許しを差し出す。そのことの苦しみは自分が引き受けて。

まっすぐにあなたを見て

私達もそのようにできたらと思う。人の言葉に裏切られても、言葉で傷ついても、私はまっすぐに、相手を見て、裏表のない愛のことば、バカ正直な言葉を、許しの言葉を、かけ続けていきたい。

だって、イエス様の言葉がそうだからです。裏表のない言葉が、こんなに力を持っているんだとわたしの心が知っているからです。言葉の裏を読む必要なんて神の言葉にはないということが、こんなにも嬉しい事だって知っているからです。

それは丸腰の言葉です、傷つくことを恐れない言葉です。裏切者を、敵を友と本気で呼んでしまえる言葉です。この世界はそんな言葉に飢えています。私達も、そのように生きたいと思います。(終わり)